雲の彼方  <2月6日





 そろそろ冬を越そうとしていた。
 
 
 相変わらず閑古鳥が鳴きっぱなしの鳴海探偵事務所では、所長と唯一の調査員とが青い表紙のファイルを捲っていた。
 平日の昼間だと言うのにそれ以外に仕事がないというのも悲しいものだが、当人達はいたって真剣な表情。
 もっとも、それはファイル整理が重要だと認識しているわけではなく、デスクワークが苦手な二人は、気合いを入れて集中しなければ前進どころか後退してしまうことを十分知っているからだ。
「…だから、これがこっちだろ?」
「違いますよ、これはこの事件の追加調査じゃないですか。だからこっちのファイルに」
「いや、でも種類別にするとだなあ」
「でもほら…」
「でもなあ…」
「……」
「………」
 時間が経過する毎にどんどん少なくなっていく会話と、反して積み上がるファイルの山。
 その山が机にかがみこんだ自分達の頭を越したところで、わざとらしいほどに大きなため息が落ちた。
 発生源の誠司は身体を起こして頭を掻いている。
「青少年、お茶」
「…コーヒーでいいですか」
「おう、もう何でもいいや」
 ひらひらと手を振った誠司に苦笑を向けてから、恭介は立ち上がる。さすがにこのまま続けるにはお互い限界を感じていた。
「お前よくこれ解いたよなあ」
「俺は所長なりに整理してるんだと思ってましたけど」
「いや、適当」
「……適当ですか…」
 給湯室と事務所のソファとで会話を交わしながら、恭介は手際良くコーヒーを入れる。
 程なく運ばれてきたコーヒーに口を付けながら、誠司はファイルに挟まれていたうちの一枚を手に取った。
「これなんかいくら考えてもなんだったのか思い出せん」
 言われて覗き込んだ手の中には、たった一言「重要」と書かれている。
 あまりの簡潔さに恭介は眉を顰めた。嫌な思い出が脳裏に過ぎったからだ。
「…またあぶり出しとかじゃないでしょうね」
「やってみるか?」
「いいです」
 即座に否定した恭介に、青少年は冷たいなあなどとこぼしつつ、誠司はその紙を裏返す。裏側も嫌味なぐらいに真っ白で、どこにもヒントらしきものは見当たらない。
「…なんだと思う?」
「俺に聞かないでくださいよ」
「だよなあ」
 口元に手を当てて真剣に考え込む誠司を眺めつつ、恭介はまた一つファイルを手に取る。
 苦戦するその様子にふと思い付いて、しばらく悩んだ末に口を開いた。
「……所長」
「んー?」
「昔の所員とか、呼び戻さないんですか」
 恭介の質問に、誠司は顔を上げた。笑みを含んだその表情に、恭介は問いを投げたことを少しだけ後悔する。
「なんで?」
「…いえ…たとえばその紙も、当時の所員なら何か覚えてることがあるかもしれないじゃないですか。それに」
「それに?」
「多分、その人たちも…所長に逢いたいって思ってますよ」
 台詞に少しだけ瞠目して、誠司は困ったように顎を撫でた。
「…逢いたい、ねえ」
 何故、と問われたら勘だと答えるしかないが、恭介には容易に想像がついた。
 この所長を慕う昔の所員が、きっと大勢いただろうこと。そして消息不明だった彼が戻って来たことを、皆喜ぶだろうということが。
「俺、恥ずかしがりやさんだからなあ」
 誠司はそう呟いて口の端を持ち上げ、また手元に視線を戻す。
 合わせる顔が無い、そう言いたいのかもしれない。恭介はその話題に触れるのをやめ、話題をすりかえた。
「そういえば…京香さんはまだ遅いんですか?」
「あー。あいつなあ」
 出勤してきて開口一番、「依頼はないぞ」と言い放った誠司から、続けて京香が遅れてくることだけは聞いた。
 調査がなければ役立たずに近い二人組はやることもなく、仕方無しに夏以降放置しっぱなしだったファイル整理に手をつけて、もう昼が近い。
「氷室と一緒に、面会行ってるから」
「面会…?」
 聞き返してから、ふと思い至る。彼女が面会にいく相手なんて、一人しか居ない。
「……そう、ですか」
 それだけ絞り出して、恭介は手元のファイルにもう一度視線を戻す。
 硬い声音にちらと恭介をみやった誠司が、未だに意味の分からない書類を放り投げた。
 その呆れと言うよりは苦笑顔に、顔を上げた恭介がため息を吐く。
「まだまだ精神修養が必要だなあ、青少年」
「…努力します」
 返答に誠司は高笑いを返した。遊ばれていることに気づいていても返す言葉のない恭介は、ファイルに没頭することで雑念を取り払おうとする。


 
 冬の澄んだ空気が、木枯らしに煽られて窓の外を駆け巡った。
 そろそろ、冬を越そうとする頃。
 
 
 
「……遅いですね」
 定時が来ようかという頃になっても、結局京香は顔を見せなかった。
 顔を上げ、不安を隠さず眉を曇らせる恭介に、誠司も結局思い出せなかった意味不明な書類の山を端に寄せながら渋面を作る。
「迷子にでもなったか?」
「……一応氷室さんと一緒なんだし……大体京香さんをいくつだと思ってるんですか、所長」
「親にとって子供はいつまで経っても子供なんだよ。覚えておきなさい、青少年」
 口の端を何故か誇らしげに持ち上げ、誠司はソファから立ち上がる。
「そして可愛い娘の為ならお父さんは何だってやりますよー」
 言いながら、誠司は事務所の受話器を取り、手馴れた様子で番号を打ち込んでいく。
 電話をかけるだけじゃないですか、と言いかけた恭介は寸でのところで言葉を飲みこんだ。一言多い性格は、なんとか改善されつつあるようだ。
 
「……」
「………」
 
 しばらく沈黙が続く。
 呼び出し音がゆうに20回は鳴っただろう所で、誠司はようやく受話器を一旦置いた。顔つきは先程より険しくなっている。
「青少年。氷室の番号」
「は、はいっ」
 携帯を取り出して電話帳を探る。どちらにするかで一瞬迷ったが、恭介は結局携帯の番号を読み上げた。
 先程よりも重たい沈黙が、事務所内を支配する。
 大仰とも取れるこの反応にも、二人は疑問を抱かなかった。以前に一度前例が有るだけに、二人の表情からは余裕が無い。
 もう解決したんだと、そう言い聞かせても。
 古傷はそう簡単には痛みを和らげては、くれない。
「お、氷室か。……いや、うちのチビのことなんだけど」
 事情の説明を始める誠司から視線を外して、恭介は自分の携帯を再度操作し、すっかり腐れ縁になった自称ワトスンの番号を探し出す。
 杞憂ならそれでいい、そう思いながら通話ボタンを押した所で、後ろから唐突に笑い声が響き渡った。息を止めて振り向くと、誠司が受話器を持ったまま腹を抱えて笑っている。
「ははは! そうかそうか!」
 しかも何やら納得した様子で。
 携帯を頬の横で止めたまま、恭介はなおも笑う誠司を不審そうに見やる。
(氷室さんに電話して笑ってるなら……大丈夫なのかな)
『おーい、恭ちゃん? なんかあったんかー?』
「あ、やばっ」
 通話状態になっていた携帯を慌てて耳に当てて、恭介はざっと事情を説明する。
 電話の向こうの不審そうな声は、事情を聞いてすぐにいつもの調子へとすりかわった。
『人騒がせなねーさんやな。何ともなさそうなん?』
「所長の様子を見る限りはね」
『ふーん……ま、とりあえずそっち向かうわ。オレもちょうど用事済んだとこやし』
「ああ、頼む」
『ほななー』
 哲平との約束を取りつけて通話を切ると同時に、誠司も受話器を置く。まだ表情には笑いが残っていた。
「……所長、あの」
「あー、心配するな青少年。迷子だから」
「は!?」
「迷子。連れて行ってもらった氷室とはぐれて、なんとか自力でビジネスパークまで帰ってきたところを保護されたんだそうだ」
「……保護って…だいたい京香さんも氷室さんも携帯もってるんじゃ…」
「京香のは電池切れ」
「で、でもさっき電話……」
「あ、あれ俺のを間違えて鳴らしてた」
「……」
「なんかポケットでブルブルいってるって思ってたんだよなー。いやー、まいったまいった」
「……」
「………スマン」
 おもわず呆れ顔でにらみつけた恭介に、誠司はばつが悪そうに頭をかいて首を竦めた。
「とにかく、氷室が連れて戻ってくれるって言ってるから」
「そうですか…」
 何事も無くて良かった、と言わんばかりの深いため息と共に、恭介がソファに座り込む。
 誠司もデスクの椅子に沈み込んだ。


 傷は、そう簡単には癒えない。
 いくつもの夜を、季節を越えて、やがて何事も無かったかのように笑えるようになっても。
 きっかけさえあれば嫌でも思い出す。

 表に出すか出さないかの差はあれど、痕になってしまった傷は二度と、元通りになることはない。


 恭介は握り締めたままの携帯電話を見つめる。
 まだ淡く光るディスプレイを、意味もなく眺めながら。
「……俺も精神修養が足りないみたいだなあ」
 そう小さく零した誠司の台詞を、聞かなかった振りで。






 ほどなくやってきた哲平が事情を聞いて笑い転げ、その発作がようやくおさまる頃に、のんびりと間のびした声が届いた。
「どーも」
「あ、氷室さん」
 ひょっこりと顔を覗かせた氷室が、促すようにして背後の人影を事務所へ誘導する。
 ややためらうように立ち止まった人影が、促しに重い足取りで事務所内に踏み込んだ。
「京香…さん?」
 誠司評する「迷子」の京香は、その表情に疲弊の色を濃く纏わりつかせている。
 先ほどまで笑いで満ちていた所内がしんと静まった。
「京香」
「えっ! あっ、お父さん……」
 強い口調で呼ばれ、びくりと身を竦ませた京香は、誠司の顔を見てわずかに泣きそうに瞳を歪ませる。
「……どうか、したんですか」
 横から口を挟んだ恭介に、京香は慌てて笑顔を作った。
「なっ…なんでもないの、真神くん。今日はごめんなさいね。依頼も無いみたいだし、帰っていいわよ」
「はあ……」
 テーブルに散らかしたままだったファイルは、哲平が来る前にざっとまとめてしまいこんであった。特にすることも無く、留まる理由も見当たらなかったので、恭介は哲平を促して席を外す。
「じゃ、すみません。お先に失礼します」
「う、うん。お疲れ様」
 すれ違いざまに、氷室が恭介にちらりと視線をよこした。
 その硬さに何かあると察した恭介は、目線で返事をしてそのまま事務所を出る。
「……恭ちゃん」
「ああ、分かってる」
 階段を降りながら語りかけてきた哲平の言葉を遮って、恭介は通りへと降り立つ。
 単なる身内の隠し事で済まない内容なのだと、氷室の視線は語っていた。
 全てに片が着いたと思っていたのに、ひどくバランスの悪いこの世界はそう簡単に安定を許してはくれないらしい。
「明日、氷室さんに会いに行ってくるよ」
「オレもついてってええか? 手伝えることあるかもしれんし」
「…頼めるか?」
「任しとけって」
 一瞬すまなさそうな顔になった恭介に、哲平は笑いかけた。
 その緩い笑顔を見て、恭介も少しだけ安定を取り戻す。

 夕暮れに染まる遠羽の町並み。
 見渡して、恭介は痛みを吐き出す努力をする。

 あの痛々しいまでの誤魔化し方に、誠司をかばおうとしていた京香を重ねて。







「……行ったか?」
 ブラインドの隙間から通りを眺めていた氷室に、ソファから誠司が言葉を投げる。
「ええ」
 どうせ明日にはこちらにくるでしょうけど、といいたげな様子の氷室に苦笑を投げて、誠司は給湯室の入り口へ視線を向ける。コーヒーを入れると言って、暗い表情のまま席を立った京香は、また例の様子で呆けている。
「何があった?」
「……それは彼女から聞いてください。どうこう言える立場じゃないですので」
「そうか」
 暗に個人的な話だと告げてくる氷室に、誠司はそれ以上問いかけることはしなかった。
 氷室が知っているということは、秘密ではないということだ。だったら聞き出す方法はいくらでもある。
「すぐには無理だろうなあ」
「ですね……休ませてあげてください」
「ああ、わかってる」
 給湯室から、コーヒーの落ちる音が響いてくる。
 その物悲しげな音に、誠司は目を閉じた。
 昔の記憶と戦うかのように、眉をきつく引き結んで。







 夜明けまでは、未だ遠く。







――――Next.

 
無謀にも続きますよ。
ていうかあれですよ。話全然進んでませんよ。
……大丈夫ですか私。

オールキャストで頑張りますっ!!!
ええ、無理矢理にでもあれこれ出しますよー!
(無茶言うな)

所長と恭ちゃんの会話、ついだらだらと続けちゃいました。反省。