雲の彼方  <2月8日>





「…良く来てくれた。お前にどうしても会いたかったんだ」
 
「随分と手の込んだご招待をどうも」
 
「そんなつもりはなかったよ。さっきも言っただろう? 会いたかったんだって」
 
「……」
 
「会って一言、詫びたかった」
 
 
 
 
 
「おはようございます」
「あ、おはよう真神くん」
 事務所の扉をくぐると、幾分顔色の戻った京香が出迎えた。
 いつもと変わらないとまでは行かなくても、昨日の帰り際までまだ残っていた緊張していた空気が少し落ちついている。
 その事実に安堵しつつ、事務所内を見回す。昨晩、報告は明日との言葉を残して消えた誠司の姿は、いつもの定位置に座った気配すらない。
「京香さん、所長は?」
 綺麗なままの灰皿を見やりつつ尋ねると、京香は眉を寄せて腰に手を当てた。
 どうやらご立腹のようだ。
「それが昨日出掛けたっきりなの。一度夜に電話があったんだけど、もう少しかかるからって言ってたわ」
「そうですか…」
 では、渡りをつけるのに手間取っているか、それとも。
(もう、すでに会っているか…)
「真神くん」
 思考の海に沈みかけたところで、京香の声が恭介の意識を浮上させた。
「あ…はい」
「お父さんに何か頼まれてるんでしょ? 行ってきていいわよ」
 核心を突いた台詞を唐突に受けて、恭介は内心ぎくりとする。
 確かに調べていることはあるし、それが所長の頼み事であることに半分は間違い無いけれど、半分は。
「え、でも…」
「大丈夫よ、行ってらっしゃい。…お父さんが言わないってことは、真神くんも言えないってことでしょ?」
 恭介のためらいを違う意味に取った京香が、そう言って少し笑う。
「……すみません」
「謝らなくてもいいわ。…お父さんが帰ってきたら、締め上げてやるんだから」
「………はい」
 実際何度も『締め上げられた』ことのある恭介は、内心で誠司の健闘を祈る。
(…バレないといいけど)
「じゃあ…お願いします」
「うん、頑張ってね」
 その台詞に、恭介の心臓が跳ね上がった。
 労ってくれている相手を探っていると言う罪悪感で、心が満たされて。
(すみません…京香さん)
 心の中で呟いて一礼すると、恭介は事務所を後にした。
 
 
 

 
「…詫びなんていらねえよ。あいつはもう、帰ってこない。あいつだけじゃない、失われた命、すべてな」
 
「ああ、分かっている。違うんだ、詫びるのはそのことじゃない」
 
「じゃあ何をだ?」
 
「ずっと欺いていたことを、詫びたかった」
 
「……」
 
 
 

 
「白石さーん!」
 ビジネスパークの前から遠羽浜へ抜けようとした路地先で呼び止められる声に振り向くと、隆興が小走りに走り寄ってきたところだった。
「おう、タカ。どした?」
「なんか調べてるんじゃないスか? 手伝えることあったら言って下さいよ」
 開口一番のその台詞に、哲平は思わず苦笑を漏らす。
 自分達が行動を開始したのはつい昨日のことだ。昨日は丸一日、恵美が捕まらなかったので、ほとんど知り合いには声をかけていない状態だというのに。
「耳はやいなー、お前」
「いや、それが睦美が、昨日恭さん見かけたとかで」
「へ?」
 予想外の台詞に哲平は目を丸くする。あのプチ不良少女の行動エリアに踏み込む理由が、哲平には思い当たらなかった。
「…メロディーマートか?」
「そうそう、そこの前通り過ぎてったって……あっちの方恭さんがうろつく理由、あんまし思い当たらないし」
 そう言えば恭介の心当たりが何で、どういう調査をしているのかは全く聞いていない。
「……あの、なんかあったんスか?」
 複雑な顔で黙り込んでいる哲平の様子がよほど不審だったのか、隆興は恐る恐る尋ねる。
「ああ、調査っちゅーたら調査なんやけどな……何であっちなんやろ」
「白石さん、聞いてないんスか?」
 聞いていない。
 だけど、それを安易に認めるのは何故か癪に障る。
「っつーかな…はっきりしたことがわからへんから、いろんな線から調べてみてるとこやねん。オレはヤバい方担当」
 そう誤魔化して煙草を取り出すと、隆興がライターを探しつつ眉を寄せた。
「……ヤバい方ってなんスか…?」
「聞かん方がええ。まだオレ一人でも何とかなるし」
「でも」
「……オレらもう、巻き込みとうないねん。分かれや」
 その台詞に、隆興は目を丸くする。
 一つ息をついてから、ゆっくりと、懐かしむように、悼むようにその目を伏せた。
「まだ、自分を許せないんスか…?」
 哲平は唇を噛んだ。隆興がはっと目を見開いて、次に言うべき言葉を捜して沈黙する。
 弁解の言葉が浮かばないまま、その場に重たい沈黙が落ちた。
 
 
 
 
 
「これだけのことをしてしまった私を、彼が許しても世論は許さないだろう。ほんの少し命が延びただけだ。たとえ、彼がなんと言おうと、そういうものだよ」
 
「……ああ」
 
「だから、あれからずっと考えていた。僅かに与えられた時間で、私が何をすべきか」
 
「それで、結論がこれか」
 
 
 

 
 ポケットの中の電話が鳴り響いた。
 一瞬びくりと身を竦めた恭介は、ディスプレイを確認して渋面を作る。
 予想外の、しかもあまり歓迎したくない相手。
「……」
 逡巡したが、結局恭介は通話ボタンを押しつつ携帯を耳に押し当てた。
『見習いーっ!! 助けてー!!』
 予想外の救援コールに、恭介は眉を顰める。
「…奈々子?」
 相手が相手だけに、理由が何にしろ面倒であることに変わりは無いとは思うが、電話の向こうの声が切羽詰っていることに少しだけ不安を感じて、恭介は少しだけ緊張を走らせる。
「何が…」
『あのね! 明日台風で山ちゃんが鬼なの!』
「……」
 覚悟はしていたが、やっぱり支離滅裂だ。
 恭介は緊張を頭痛にすり替えながら、こめかみを押さえる。
「…山ちゃんって誰だ?」
『山ちゃんは山ちゃんだよ。何言ってんの見習い』
 間髪入れず戻ってきた答えに、これ以上電話を続けていても埒があかないことを痛感させられた恭介は、ため息をついて受話器を持ちなおす。
(このままほうっておくと被害は確実に無限大増殖だよな…)
 それを止めるべき相手が居なければ、膨らんだ事態を最終的に始末するのは紛れもなく自分だ。
 ならば今、被害が最小限なうちに留めておくのがいいと判断して、受話器の向こうへと大きなため息を送る。
「……分かった、行くから。今どこだ?」
 不条理を感じつつも、恭介は諦めてそう尋ねた。電話の向こうの声が、少しだけ明るくなる。
『えっとね、サイバリア。奏ちゃんもいるよ』
「それは…ありがたいな」
 このままの奈々子一人を相手にしていたら、どれだけ頑張っても情報を聞き出すだけで日が暮れる。
 恭介はそこを動かないこと、申し訳無いと思いつつも奏を捕まえておくことを指示して、電話を切った。
「ああもうこの忙しい時に…!」
 言いながら、足早にサイバリアへと向かう。
 道すがら、早くも後悔しそうになる自分を必死で否定しながら。 
 
 
 

 
「……私は後悔していない。今までも、これからも」
 
「相変わらず不器用な奴だな」
 
「それは、お互い様だろう」
 
 
 

 
「頼み事やと?」
『そ』
 肩を竦める様が目に見えるようで、哲平は嫌そうに眉を顰める。
 もう日はかなり傾き、急に鳴り響いた電話の相手は、昨日さんざん捕まえようとして空振りをくらった恵美だった。
『あんたたちもどうせ欲しいものがあるんでしょ? 昨日の着信履歴見たわよぉ、すっごい数のラブコール』
「気色悪ぃ言い方すんな!」
『なによぉ。つれないわねえ。…とにかく、情報が欲しいならそれが交換条件』
「…変なことちゃうやろな」
『至極まっとうな調査よ』
 疑ってかかるも、相手はするりとかわしてしまう。いらつきに歯噛みしながらも、哲平は脳内で言葉を反芻した。
 恵美の言葉にはいつも「嘘」はない。どうしようもなく腹立たしくて心の底から脱力することはあっても、恵美はいつも本音だ。
 その彼が「まっとう」と言うなら、信じるしかない。
「……わかった。ほな恭介にナシつける。引きうけるかどうかはあいつに任せるけど、ええな」
 危険かどうかを匂わす台詞が一つも無いことに不安を感じながらも、哲平はそう告げた。
 自分に直接話が降ってこないということは、実質恭介への調査のようなものだ。相談せずに決めることは出来ない。
『いいわよ』
 ともすれば諦めてくれるかとの淡い期待を裏切り、あっさりと返事が返ってくる。
 哲平はおちつかなげに足元を蹴った。
 意図が読めなくてイライラする。この二日前に進んでいる手応えがさっぱり無いだけに、ストレスは二乗。
 何も分からないことが、逆に何かあるのではと不安を煽る。そのまま信じ込むには、出来すぎたシナリオ。
 そのまま信じ込めれば、どんなに楽か。
「ほなら夜、いつもんとこでな」
 強引に話を終わらせて電話を切ろうとしたところで、トーンの上がった声が送話口から追いかけてくる。
『はいはい。あー、楽しみ〜。小猿に会うの久々だわぁ〜』
「こっちは会いとうないわ!」
 猫なで声についいつもの調子で反応を返すと、楽しそうな恵美の声が追ってきた。
『あらあ、いいのそんなこと言って? 愛しの真神クンが欲しいもの、アタシ持ってるかもよ?』
「…どういうことや」
 台詞に、哲平の口調がやや落ちる。
 電話の向こうで、恵美が笑うのが見える気がした。
『あんまりアタシをなめないでよね、っていつも言ってるでしょ。アンタ達が何やってるかぐらい分かってんの』
「…んなローカル情報まで集めてんのかい」
 なめるなめないの問題ではなく、単純に恵美の情報範疇外だと思っていた哲平は呆れ声を上げる。
 このくらい耳聡くないと、やはり情報屋は勤まらないのだろうか。
『さあねえ〜。とにかくそのあたりの話は会ってから。…あ、それと小猿』
「まだあんのかい」
『真神クンから目を離すんじゃないわよ。今からでもいいから捕まえときなさい』
 言葉に、心臓を刺し貫かれたかと思った。
 哲平は握りつぶすほど強く携帯を掴みながら、受話器に言葉を叩きつける。
「…っ! シゲ! どういうことや!」
『エミーだってば! …まったく、落ちつきなさいよ。大丈夫、今のところ真神クンを狙ってるとかそういう動きは無いから』
「なら何でや!」
 思わず勢いで怒鳴りつけた電話の向こうで、恵美がわざとらしいため息をつく。
『…なんか気になるのよね、真神クンの動き。あんたちゃんと把握してる?』
「……いや」
 しょうがないわねえ、と肩を竦めるのが分かる。映像がちらつくのが哲平の癪に障る。
 いまさらながら、哲平は恭介の考えを聞いておかなかったことを後悔した。
『それも今日の課題ね。じゃあ夜に』
「…おう」
 通話が切れる。沈黙が落ちる。考えることは山ほどあるが、考えても結論が出るとは思えなかった。
 哲平はしばらく燐光を放つディスプレイを眺め、一つ息を吸い込んでから呼び出しなれた番号に手をかける。
『哲平?』
 その声がいつもと寸分変わらなかったことに、安堵のため息。
「おはよー恭ちゃん! 哲平ちゃんからのラブコールやでー」
『今何時だと思ってるんだ! もう5時だ5時っ!』
 届く怒声に笑える自分に、まだ大丈夫と言い聞かせながら。
「恭ちゃん、ちょお早めに来れるか?」
 
 
 


「時間が無いんだ。…早く、しないと」
 
「…お前のか?」

「そうだ」


 
 
 
 言われたとおり少し早めにハードラックの前まで来ると、まだ開いていない店の前で哲平が煙草をふかしていた。
「お疲れ」
「おう」
 挨拶して、恭介は片手を上げて笑う哲平の隣に立つ。
 一つ煙を吸い込んで、哲平がその煙とともに問いかけを吐き出した。
「…どうやった?」
「こっちはやっぱりあてが外れたかも。さっき電話入れたけど、所長もまだ帰ってないし…まあ、実動時間削られたのもあるんだけど」
「は?」
 呆けた顔を向けてくる哲平に、恭介はやや疲れた笑顔を向ける。
「明日が台風で山ちゃんが鬼」
「……ああ、奈々ちゃんか」
「…話が早くて助かるよ」
 他にそんな不可思議なことを言い出す知り合いが思いつかない哲平が苦笑を送ると、恭介はぐったりと頷く。
「奈々ちゃんどうかしたんか?」
「進路調査のプリントを無くしたんだって」
「………」
 それが何故あの言葉に繋がるんだと言いたげな哲平の視線。
「山ちゃんは先生で、怒ると怖いから鬼。本当は今日提出だったらしいけど、明日に延ばしてもらったんだってさ。忘れると更に怒られるから台風」
 恭介は確認するように指を折りながら、一つ一つ解説していく。 頷きながら聞いていた哲平が、単純ゆえに複雑になっている言葉を解読した恭介に拍手を送った。
「恭ちゃん偉い」
「…嬉しくない」
 ものを探すことよりも奈々子の暗号解読に苦労したと、疲労しきった表情が物語っている。
「無くしたのはサイバリアでだって言うから、店長とかが捨てるわけは無いと思うんだけど」
「見つからんかったん?」
「うん。しょうがないからこれから学校戻って余ったプリントもらってくるって、奏ちゃんが」
 携帯灰皿に煙草を押し込んだ哲平が、ポケットに手を突っ込んで向き直った。 目には同情の色が浮かんでいる。
「……あの子もおったんか」
「うん」
「………お疲れ」
 先ほど自分が投げた台詞をそのまま返されて、ますます疲労が増す気がする。
「……ありがとう」
 投げやりにそう答えれば、哲平の苦笑が降ってきた。


 サミーが来るような騒がしい気配は、周囲にはまだない。
 哲平が二本目の煙草に火をつける。充満する埃と湿気の匂いに、煙草の匂いが交じり合う。
 すっかり慣れてしまったその空気を、恭介はゆっくりと吸い込んだ。あまり、体にはよさそうに無いと思いながら。
「結局空振りや言うてたけど…恭ちゃん、何調べとったん?」
「…ん……」
 問われて、少し躊躇いを乗せる。
「数見町の方で聞き込みしてた」
 あいまいに返すと、案の定哲平はそうやなくて、と言葉を変えてきた。
「なんかアテある言うてたやん、何?」
 ストレートな台詞に観念してため息を吐くと、恭介は哲平から視線を外して空を見上げた。
 コンクリートの隙間から僅かに覗く空はもうすっかり暮れていて、そろそろ騒がしい店主が顔を出しそうな予感だ。
「店開いてからでいいか?」
「…ええよ」
 話すのに少しだけ、心の準備をするために。





「じゃあ、準備…しねえとな」

「ああ、多分彼女がやってくれてると思う」

「…しかしお前、本当にこれでいいのか?」

「ああ。…お前に謝罪できた今、私の後悔はそれだけなんだ」

 
 

 
 哲平が四本目の煙草を吸い終えようかというころになって、ようやくサミーが路地の入り口から顔を出した。
「OH! テッペーにキョースケ! そんなところに突っ立って、わざわざサミーを待ってたのかい?」
 来た早々に豪快な台詞を投げつけられた恭介は脱力し、哲平は煙草を取り落とす。
「待っとらんわ! ええからはよ店開けい!」
「OKOK! テッペーはシャイボーイだからな!」
「誰がや!」
 豪快に笑いながらサミーが店の鍵を開ける。
 癖になっているのか、律義にも煙草を拾って灰皿へ押し込む哲平より一足先に、恭介はハードラックへと踏み入れた。
 店主によって電気の点いた店内はやや明度を増したものの、それでもやや陰気な印象を受ける。
「HEY、BOYS! いつものでいいのか!?」
 それでもただ一人陽気な店主のおかげで、ここは陰鬱にならないでいられるのかもしれない。
「はい」
「はよ持ってこい」
「OK! HAHAHA!」
 ぐっと親指を立てたサミーが奥へと消えていくのを二人で見送る。いつものことだけれど、今日は特に疲労度が高い。
「…ほな、報告会といこか」
 哲平がそう言って強引に笑う。どこか引きつった笑顔で、恭介もそれに応えた。
「でも…昨日、お前のほうもあんまり収穫ないって言ってたよな」
「ああ。白虎会のにーさんらに色々聞いて回ったんやけどな、特にそれっぽい噂はないみたいや」
「そっか…じゃあそっちの線も薄いのかな」
「ま、もう少し追ってはみるけどな。あとはオレの方はシゲ待ち」
「エミーさん?」
 出てきた名前に、恭介は首をかしげる。
「ああ、なんか握っとるみたいなこと言うてた。今日ここくるから。…交換条件付きやけどな」
「………」
 物騒な言葉に、恭介が目を見開いて沈黙した。瞬いて、哲平は言葉の意味を履き違えている恭介に気づくと慌てて否定する。
「し、心配あらへん。そういうんやない! なんか調査頼みたいて」
「何だそんなことか、びっくりした…。いいよ別に」
 溜めていた息を吐き出して、恭介はあっさり了解した。
「…いいんか?」
「え。だって交換条件なんだろ?」
「……ああ、まあな」
 内容も聞かずに即答で答えてしまえる恭介に向かって、哲平は一日一度は呟く言葉を胸の内で繰り返す。
(…恭ちゃん、お人好しもほどほどにな…)
 ちょうどそこに騒がしく酒が届き、二人は話を一時中断してお互いの酒に手を伸ばした。
 




「しょうがねえな。とりあえず祝杯、あげるか」

「何を祝うんだ?」

「そうだなあ、お前の……」





「あらあ、早いわねえ」
「…きおったで」
 入り口から届いた艶めかしい声に、首を竦めて哲平は入り口を見やる。すらりと立って腕を組んだ恵美が、小さく笑みを漏らした。
「ご挨拶ねえ。ま、久しぶりだし大目に見てあげるわ。真神クンも久しぶりね」
「お久しぶりです」
 律義に頭を下げる恭介に目を細めながら、恵美はカウンターまで歩み寄る。定位置に腰掛けると、ゆったりと笑った。
「じゃあ、あのラブコールの内容聞かせてもらいましょうか」
「妙な言い方すんな言うてるやろ!」
 哲平が吠えるのにも構わず、恵美は恭介に向き直る。いつだか教えてもらったようにテーブルを挟んで立つ恭介は、少しだけ引きつった笑いを返した。
「アタシの方も、聞きたいことあるし」
「…俺に、ですか?」
「そ。小猿から聞いてない? 調べてほしいことがあんのよ」
「ああ、はい聞いてます」
 頷く恭介に、エミーは足を組み替えた。膝に手を組んで、一言。
「ネコ探しなの」
「ネコぉ!?」
 ふてくされてドライマティーニ三杯目を干していた哲平が、言葉に叫びを返す。
 恭介もあまりの意外さに目を丸くしているが、本人はすっかりそのネコにご執心らしい。
「そー。ネコ。そこらで拾ったノラなんだけどね、情がうつっちゃって」
「…似合わんことしとるな、お前」
「うるさいわね!」
 茶々を入れて混ぜ返そうとする哲平を、恵美は一睨みして怒鳴りつける。
「あ、じゃあ特徴を聞かせてもらえますか」
「写真があるからこれ持ってって頂戴」
 つ、とカウンターの上を滑らせた写真を近づいて拾い上げると、白に茶のまだら模様が入った細身のネコがうつっていた。
 目を引くのは、右後ろ足に巻かれた真っ白な包帯。
 近寄って覗き込んだ哲平も、仏頂面をすうと引かせて真顔になった。
「…エミーさん、このネコ…」
「手術したばっかりなの。そういうわけだから、ちょっと早く見つけてあげて欲しいのよね」
「わかりました」
 すらりと立つネコの包帯の巻かれた足は、床には届かない。
「…病気なん?」
「怪我。もう施しようが無いって言われたから…手術で膝から下を、ね」
「そうですか…」
 どんなにか辛かったか。どんなにか痛かったか。 
 自分の一部を奪われる心境を思って、恭介は目を閉じた。


「…それで、アタシは一体何を話せばいいの?」
「ああ…そういや恭ちゃん」
「ん?」
 恵美の言葉に思い出したように、哲平は声を上げる。
「そっちは?」
「ああ、そっか」
 半分ほど忘れていたという表情で、恭介はグラスに目を落とした。
「とりあえず流れを説明してよ」
「えっと…」
 憶測なんですけど、と言い置いて、恭介は経緯の説明をした。
 京香が高貴の面会に行ってからおかしいこと、氷室の謎の言葉。
「パーツの残党とも考えて、哲平に噂集めてもらってたんですけど、空振りだったみたいで」
「そっちの線は薄そうね」
「なんでや」
「この辺りは今微妙な拮抗状態なのよ。牛耳ってたパーツがいなくなって、後を狙うやつらがいるのはもちろんなんだけど…飛びぬけて力のあるやつはいないから、誰も手出しが出来ずに睨み合ってるのよね。そんな状態で残党なんて影がちらつけば、噂にならないわけないもの」
 恵美の解説に、恭介も哲平も眉を寄せる。
「他にないの? 真神クン何か独自にやってるみたいじゃない」
「……ええ」
 答えて、恭介は逡巡するように俯いた。
 淡い光を放つグラスを揺らしながら、哲平、とぽつりと言葉を投げる。
「おう」
「…お前、数見町の方に知り合いいるか?」
「いや…おらん」
 考えるまでもなく、哲平は首を横に振る。それは今日、隆興と話をしてからずっと考えていたことだ。
「…俺、一人だけいるんだよ」
「誰や?」
 恭介は少しだけ言葉を発するのを躊躇った。
 
「……森川」
 
「森川、て…」
 意外な名前に哲平はそこで言葉を失う。恵美は表情一つ変えない。
「ああ、あいつはもういない。…でも、「千切れた」っていうのが気になるんだ。あいつは最後……後悔してたから」
 恭介は視線をグラスに落としたまま、過去を振り切るようにぽつぽつと語る。
 すべての傷が癒えないうちは、語るのも辛いときがある。
 それでも。
 息を詰まらせて声を嗄らせてでも、前に進まなければいけない。
「組織から自分の意志で「切れようとした」…いや、実際に切れた奴、そう喩えるならあいつだって少し特殊だけど当て嵌まるだろ」
「そやかて他に組織抜けよう思うた奴なんてようけおるやろが」
「それはそうなんだけど…森川のことだったら、氷室さんや京香さんが隠してるのも頷けるし」
「…ああ、そぉか」
 哲平がようやく強張った体の緊張を解き、自分の酒に手を伸ばす。
 勢いでグラスを干す手を見ながら、恭介もまた少し唇を湿らせた。
「…だからあいつのアパートの周りとか、後に入った誰かがいないかとか調べてた。…変な話は出てこなかったし、結局手詰まりなんだけどな」
「じゃあ違う、ちゅうことか?」
 わからない、と恭介が首を振って、グラスから手を離した。
 中の氷が溶けて、かん、と高い音が響く。
「その森川ってコの事だけど」
 唐突な恵美の言葉に、恭介と哲平は同時に顔を上げた。
「アタシ、ちょっと変な話を聞いたのよね」
「変な話…?」
 眉を寄せた恭介が、言葉を反芻して先を促す。カウンターから降りて、恵美は少し声を落とした。
「そのコの実家とか、埋葬先とかを調べてるヤツがいるって」
「なんやと!」
「そっ、それ、いつごろからですか?」
 意外な情報に二人が目を剥いて声を荒げる。勢いにも押されず、肩を竦めた恵美はさぁね、と呟いた。
「アタシが聞いたのは今日の昼過ぎよ。気になったから調べてみたんだけど、出てきたのは真神クンがそのコのアパート回りうろうろしてるって事だけ。だからまだ詳しいことは何も分かってないんだけど」
 恵美の台詞に、沈黙が落ちる。
 グラスの氷がまた、 かん、と音を立てて崩れ落ちた。



「ありがとうございます、エミーさん。…すみませんけど、そっちの方引き続き調べてもらえますか」
 三度ほど深呼吸をしてから、恭介はゆっくりとその言葉を搾り出した。
「はいはい」
「じゃあ俺、失礼します」
「あ、オレも帰る。ちょお待って」
 慌ててグラスを干す哲平を横目で見つつ代金をカウンターに置いて、騒がしい店主に見送られながら外に出る。
 携帯を取り出して時計を見ると、既に11時を回っていた。
「恭ちゃん、明日はどないする?」
「…うん……俺はネコ探ししながら、森川の方表側から当たってみるよ」
「組のにーさんらの方は?」
「頼む。残党のことだけじゃなくて、そっちの方も聞きこんでくれると助かるけど」
「分かった、任しとけ」
 明日の算段をしつつ歩いていると、気づけば天狗橋まで戻ってきていた。
 未だぽつぽつと明るさの残るとおば東通りを眺める。





「…届くだろうか」

「…さあな」
 




 光の溢れる町並みに、恭介は目を細めた。
 平和そうに見えるこの町の裏で、何かが起きているのだとしたら。  
「…何が起きてるんだろうな」
「それを暴くんが恭ちゃんの役目やろ」
 ぽつりと呟けば、哲平の緩い笑みが返る。
 信頼と期待。
 ともすれば重たくも感じられるかもしれないそれが、今は何故か心を軽くする。

「ああ…そうだな」

 答えて眺めた町並みに。
 何度でも守ることを誓って、ゆったりと目を閉じた。








――――Next.

 
…哲恭じゃないですよこの話。
いや、一応フォロー入れとこうかと思って。普通ですノーマルです。

ああもう書いても書いても書いても書いても終わらなかった…! し、死ぬかと。
哲平、喋りすぎなんだよ!
何度台詞を削ったことか。あああ。
エミーさんとの電話のとこ、一人で暴走特急になったりするし! もうー! バカバカ!


展開に強引さとかあったらごめんなさい。それから伏線回収し忘れてたらごめんなさい。新しくはりまくってごめんなさい。
…大丈夫かなあ…これ。
もっと多角的に攻めようと思っていたのに、他の視点から語るとネタバレ度が高すぎるので自然と恭ちゃんや哲平の視点になる…。がくり。
こんだけ引っ張ってますが、本当にたいした謎じゃないんです(爆弾発言その2)。
そろそろ分かる人も居るかなあ…。

……オチにあんまり期待しないでくださいねー…殴られそうで怖い(がくり)。

しかし今回の話32KBもある…一話分としては最高記録かも…。