雲の彼方  <2月11日>





 浮き上がるように、目が覚めた。
 身体が置いていかれたような感覚に戸惑いながら、恭介は何度か瞬いて、まだ霞む天井を見上げる。
「……あれ、朝…?」
 昨晩、哲平と別れた後から記憶があいまいだった。
 部屋に戻ったのは覚えているが、いつ寝たのか覚えが無い。
 恭介は身体を起こすと、ぐるりと部屋を見渡した。
 きちんと着替えて横になっているし、ちゃんとジャケットとコートはハンガーに掛けてある。パソコンは点けたかどうか判らないが画面は暗いまま。
 一通り見回しても異常はないようで、恭介はそこでようやく軽く息を吐いた。
「……疲れてるなあ…」
 呟きつつベッドから降りる。パソコンの電源を入れてから、冷蔵庫に入っていた牛乳をカップに移してレンジに放りこみ、肌を撫ぜる冷気に思い出したようにエアコンを点けた。
 何となく、朝食を食べる気はしなかった。
 暖まった牛乳を手にメールチェックをすると、昨日の日付の未読メールが幾つか溜まっている。やはり、昨日はメールチェックする前に寝ていたらしい。
 メルマガや宣伝メールなどを選り分けながらチェックしていると、久しぶりに見慣れた名前が目に付いた。
「あれ。キンタだ」
 夏の事件で誠司に振りまわされた古い友人から、「緊急!」と言うタイトルでメールが届いている。
 
 
 
『なあなあKYO、俺、今出向で地方へいるんだけどさ、
 
 寮の近所にすっげえ美人発見! したんだよ!
 ちょっと憂い入ってる人なんだけど、挨拶すれば会釈してくれんだ。
 もー俺毎日幸せでさ〜。
 ついついKYOにメールするの忘れちゃってて。
 というわけで今俺地元にいませ〜ん。
 
 でさ、その人なんだけど、ここ数日見なくなっちゃったんだよな…。
 どうしたんだろうって思ってたら、
 隣の席の奴が、遠羽行きの電車に乗りこんでたの見たって!!
 
 もしかしてお前の知り合いかも…。
 な、頼む! それっぽい人見つけたら
 教えてくれ〜!』
 
 
 
「…それっぽいって、どれっぽいだよ…」
 美人という情報だけで探すには、遠羽は広すぎる。恭介はため息を吐きながら、情報が足りないから無理という旨の返信をした。
 これで詳細を送ってくるなら本気だろうなと思いつつ、残りのメールに目を通してからパソコンを落とす。
 朝からテンションの高いメールで、ふわふわと漂うようだった意識が一気に覚醒した。それだけは感謝をしつつ、ホットミルクを飲み干してカップを洗う。
「………よし」
 声に出して気合を入れてから、恭介は掛けてあったジャケットを手にした。
 着込もうとして、ふと違和感に気付く。
「…あ」
 内ポケットに入れてあった森川からの手紙が、やや皺になってポケットから落ちそうになっていた。
 一度取り出して皺を伸ばしてから、もう一度しまい直す。
 残されたただ一つの言葉を、あまりいい形ではなかったとはいえ、裏切らなかった自分に感謝した。
 
「……あれ」
 
 ふと、何かがひっかかった。
(…残された、言葉……?)
 もう一度思考を辿りながら、内ポケットに仕舞い込んだ手紙をもう一度取り出す。

「……! 愚者の…言霊!」

 まさか、と思いつつ手紙をもう一度広げてみる。
(愚者なんてそんな大きな括りで、森川だって特定するのはちょっと乱暴だけど)
 文面を何度も読み返し、封筒や折り返しまでチェックする。
(ヒントを出したのが所長…引いては諏訪さんである以上、可能性としては無いわけじゃない)
  最後に一枚添えられた便箋を、透かすように見る。
(…………)
 しかし結局、届けられた時に読むことが出来たもの以上のことは書いていなかった。
(…やっぱりちょっと、乱暴だったかな…。いくら諏訪さんからだからって、そんなすぐに森川だなんて)
 考えながら、封筒に手紙を戻す。
 
 
「………あ!」
 
 
 突然声を上げて、恭介は携帯電話を手に取った。リダイヤルを数回操作して、氷室の番号を呼び出す。
 2コール目が鳴る前に、呼び出し音が途切れた。
『……よぉ』
「氷室さん、あの、ちょっと伺いたいことがあるんですけど」
『ん、何?』
「氷室さん、Aimの時の捜査資料や証拠に、目通しました?」
 電話の向こうが若干沈黙した。それから、低い声でどしたの、と問う声が響く。
「えっと、実は…」
 言いながら誠司の言葉、それから自分の推論を簡潔に説明する。
 説明が進むに連れ、相づちの数が減ってきた。語り終えたところで、ため息が一つ落ちる。
『…じゃあ小僧が気にしてるのは…森川の手紙って事か?』
「……乱暴ですかね」
 自分で言い出したことながら、口に出して説明しているとこじ付けにしか思えなくなってくる。少し自信なさげに落ちた声のトーンに、氷室は唸り声で答えた。
『いや、鳴海さんのことだから、それぐらい強引でもあまり変には思わないけどな。…持ち出しは無理だぞ、さすがに』
「判ってます。でも、氷室さんは見たんですよね?」
 見たのなら、覚えてはいないか。
 そんな期待をかけてそう尋ねると、電話の向こうが僅かに沈黙した。
『…こっそりな』
「じゃあ!」
 返ってきた返事に、思わず声を荒げる。氷室が電話の向こうで僅かに苦笑したのが気配でわかった。
『でもなあ……大した手紙じゃなかったぞ。別れを告げる内容と、死ぬなって事ぐらいか』
 それは大体察しがついている。恭介は頷きながら、携帯電話をきつく握り締めた。
「他に…他にないですか。所長たちが気にするぐらいですから、何か印象的なことが書かれてたんだと思うんですけど…!」
『印象的か…猫ぐらいかな』
「ね……猫!?」
 思わぬ単語に、恭介は思わずその台詞を反芻する。
『そう。最後のあたりに『猫を宜しくお願いします』って書いてあった。それだけ現実味があったから覚えてる』
「……猫…」
 現実味。
 パーツと言う存在も、高貴が黒幕と言う結末も、森川が命を奪って、奪われたと言うその事実も。何一つ現実味のない言葉には違いない。
 その中でただ一つ、猫という単語が氷室の目を引いたのも、ある意味至極当然なのかもしれないけれど。
「氷室さん、心当たりは?」
『猫飼ってたとかそういう話は聞かなかった』
「…犬のこともあるし、隠語とかかな……」
 高貴が見ていたサイトを思い出しつつそう告げると、電話の向こうの気配がが笑みに変わった。
『その場合猫はお前さんなのかもな』
「……やめてください。他にはなにかなかったですか?」
『んー…いや、変なとこは別になかったかなあ……報道用にコピーしたのがあるかもしれんから、探してみるわ。ただし当てにするなよ』
「ありがとうございます…お願いします」
 氷室の言葉に、恭介は礼を言って電話を切った。ベッドに電話を放り投げて自分も腰かけると、俯いて考え込む。
(森川に猫……)
 意外だが、それ以上でもない。猫を飼っていて、それを高貴に任せた。それだけなのだろう。
 それだけなのだけれど、やはり引っかかる。
 猫を頼んだ。頼まれた猫は、誰が預かった?
 高貴はいない。梨沙もいない。じゃあ今その猫は、どうしている?
(…野放し、なのかな。やっぱり)
 そもそも猫が隠語でない可能性も捨てきれていない。
 
「……って…わっ! やばっ!」
 
 気づけば出勤時刻を大幅に過ぎていて、恭介はあわてて携帯電話を手にした。
(…せっかく早起きしたのに)
 思いながら鍵を手にすると、手元の携帯電話がけたたましく鳴り響く。
「え」
 着信を確認すると、事務所の番号が表示されていた。
「ああああ、すみません京香さん…っ」
 呟きながら通話ボタンを押し、靴を履きながら耳に当てる。
「もしもし、すみません!」
『……えっ? あ、お、おはよう真神くん』
 いきなり謝られてびっくりしている京香の声を聞きつつ、扉に鍵をかけた。
「えっと、これから出勤しますんで…」
『あ。違うの。今日…依頼も何も無いし、事務所閉めちゃおうと思って』
「え…?」
 鍵を引き抜きながら受話器に耳を傾けると、京香の声が作ったように明るくなる。
『わたし、ちょっと行かなきゃならないところが出来たから。真神くんは調査があるでしょ? そっちに専念して』
「あ…はい」
『夜も戻らなくていいわ。…じゃ、よろしくね』
 恭介の返事を待たずに、やや不自然な明るさを残したまま、電話は切れた。
「…どうしよう」
 確かに事務所に顔を出さなくても、今の調査は出来る。むしろその方が都合がいいときもあるが、恭介は昨日誠司が「京香に連絡を入れる」と言い残していることが気になっていた。
 京香の様子からは連絡があったようには思えなかったし、かけ直してそれを聞くのも躊躇われる。
 しばらく悩んで、結局恭介は諦めた。
(…まだ、早いよな)
 誠司に連絡がついたところで、こちらから伝える情報を何も持っていない。あのヒントの解読もまだだ。
(あー…何やってるんだか自分でも分からなくなってきた……)
 猫を探している。京香の様子がおかしい理由を突き止めたい。諏訪の残した言葉。誠司のからかいめいたヒント。紫宵の拳銃。
「…あ、そっか。銃のこともあったんだっけ」
 頭痛の種が増えたことを思い出す。
 恭介は握り締めたままだった携帯電話を弄り、哲平の番号を呼び出した。
 朝一番で久蔵に聞くといっていたし、もしかしたら既に何か分かった後かもしれない。
 機会的なコールの後、不意に途切れたその音に被さる勢いで、打って変わって陽気な声が響き渡った。
『朝からラブコールおおきにー。哲平ちゃんでーす。今夜はサービスするでー』
「……何のサービスだ、何の」
『…ツッコミ弱いわ〜、恭ちゃん…』
 そっけない返しに情けない声を上げた哲平に、恭介はため息で返答する。
「はいはい、文句は後で聞くから。それよりどうだった?」
『そのことなんやけどな。恭ちゃん、昼予定あるか?』
「昼食? まだ何も考えてないけど」
 そもそも午前中に動けていない。少し手がかりを掴んだのが、それでも救いだ。
 やや低音になった恭介の声から何か察したのか、哲平は僅かに声のトーンを上げる。
『せやったら昼飯こっちで食おうや。ご隠居、直接話したい言うとるし』
「…そっか、わかった」
 気遣いに感謝しつつそう答えて、恭介は一度閉めた扉をもう一度開けて戸締りと時間を確認する。
「11時かあ…ちょっと早いけど、今から行った方がいいか?」
『せやな。恭ちゃん今どこ?』
「……家の前」
 僅かに溜めた言葉に、哲平の笑い声が届く。
『ほなすぐやな。ご隠居に言うとくわ』
「ああ、頼む」
 頷いて、電話を切った。
 
 


 
 
 手の中に小さなケースを抱えて、京香は事務所を後にした。
 少し考え込むようにそのケースと睨み合って、それから歩き出す。通りは平日の朝で人もあまり居ない。昼が近いのでサイバリアは騒がしそうだった。それを横目で見ながら、ゆっくりと歩を進める。
 看板の取り外されたその事務所の前まで来て、京香は立ち止まると顔を上げた。
 見上げる、その建物。
 ケースを握り締めて目を細める。
 きし、と音を立てたプラスチックが割れそうになっているのに気付き、慌てて力を緩めた。
(…どうすれば、いいの…?)
 小さな円盤が入った、安っぽい透明のプラスチック。
 これが自分の手元にあって、何がどうなるというのだろう。
(………)
 振りきるように背を向けて、来た道を戻る。ここが目的地ではない。もっと、他に。何か。
 手がかりを、少しでも。
(…真神くん)
 こういう時、彼ならどうするだろう。
 相談すべきだとそう理屈では判っている。
 
「…ごめんね」
 
 されど呟きを拾うのは、もはや風だけ。
 
 
 
 
 
 
 
 足早に門を潜って、玄関を開ける。出迎えに誰かが出る前に、大声でよばった。
「ごめんくださーい」
 少し間があって、奥から声が響く。
「恭ちゃんかー? 座敷におるから、上がってー」
「ああ、わかった」
 何度も上がり込んだため、勝手は覚えてしまった。律義に靴を揃えて、恭介は歩きなれた座敷の廊下を歩み、襖を開ける。
「お邪魔します」
 声をかけると、久蔵と哲平が同時に振り向いた。
「恭ちゃん、いらっしゃーい」
「おお、真神くん。すまんな呼び付けて」
「いえ、こちらこそ無理言ってすみません」
 頭を下げつつ、恭介はいつもの位置に促されて座る。目の前の机には、まだ昼食は並んでいない。
「昼は、話の後でいいかな」
「はい、大丈夫です。…それで、あの」
「…結論から言うとな、これがそうだ」
 言いながら、久蔵は自分の傍らにおいてあった黒い紙袋を机に置いた。
 恭介は目を丸くして、それを見据える。
「……預かって、来れたんですか」
「わしも拾った日に話は聞いていたしな。で、気になって鑑定すると持って帰ってきとったんだ」
 袋はややくたびれた様子もあるが、破れたりはしていない。その中に手を入れつつ、久蔵は真っ直ぐに恭介を見据えた。
「中を見たんだが、あちこち錆びてしまっとる。このままで発砲したりは無理だろう」
「えっ! でも、張さんがそれ、買ったんですよ?」
 しかも、高く買うと言っていたのを紫宵が見ている。
 特別な何かがあると思っていた恭介は、身を乗り出しかねない勢いで疑問を投げた。
「それだ。錆びた銃を高額で取り引きする理由が思い付かん。…だから真神くん、ちょっと見てやってくれんか」
「俺が…ですか?」
 銃を見て、何か考え付くようなことがあるとは思えなかった。恭介は黒い髪袋を見て、それから久蔵を見やる。
 いつもの温和な表情ではなく、厳しいその目つきに、恭介は自然姿勢を正した。
「……はい」
 返答に頷くと、久蔵は袋から静かに鈍色の塊を取り出した。
「……あ、れ…?」
 机の上に静かに横たえられたそれを、恭介は凝視する。
 人生で数度しか見たことの無いはずのそれに、確かに見覚えがあった。
「…恭ちゃん?」
「………」
 声をかけても、恭介は押し黙ったままその拳銃を見つめている。
 不意にその目が見開かれた。
 丁寧にも正座していた足を崩して、恭介が大きく身を引く。様子に、哲平は慌てて手を伸ばしその腕を掴んだ。
「恭ちゃん!」
「……あ」
 ごめん、と口の動きだけで告げて、恭介は大きく深呼吸する。
 それでも目は拳銃に向けられたままだ。
「…何か、あるんか?」
「……」
 強張っていた恭介の身体から、落ちるように力が抜けた。
「…多分、だけど」
「何や?」

「……威の、だ」

 部屋の気温が1℃は下がったように思えた。
 哲平は恭介の腕を掴んだまま、その横顔を厳しい目で見つめている。恭介は、その視線を受けながらもまっすぐ拳銃を見据えていた。同じように拳銃に注意を向けていた久蔵が、重い口を開く。
「…間違いないか、真神くん」
「遠目でしたし、はっきりとは。……でも、威がグランパレス江榮から逃げる時にも同じ銃を持っていたように思いますし、多分間違いないと思います。何より……錆びて、るんですよね?」
 尋ねた恭介が視線を持ち上げる。久蔵はそれに答えてゆっくりと頷いた。
「そぉか…引き上げられた、っちゅうことか!」
 哲平が合点がいった、と言わないばかりに声を荒げる。恭介は頷くと、もう一度ゆっくりと息を吐いた。
「……ご隠居」
「ん?」
「…まさか、ですけど。……威、生きてるん…でしょうか」
「恭ちゃん!」
 低い問いかけに、哲平は指先に力を込める。
「あん時、警察が腕見つけた言うたやろ!」
「…見つかったのは腕だけだよ。身体が無事なら、生きてる可能性はあるんだ。それに張さんが高額で拳銃を買い取った理由も、これがあいつので、生きてるとなれば説明が通る」
「……どういう事や」
「張さんが買ったのは拳銃じゃなくて、その持ち主だったってことだよ」
 その言葉にいぶかしげな表情を作った哲平に、恭介は向き直る。
 表情は、硬い。
「威が生きてて、その宝石商が保護するなり他で保護されてたんを引き取るなりして、張さんに売りつけるって話だとしたら?」
「……!」
 哲平が息を飲んだ。恭介は反対に息をつく。
「…簡単に売られるような奴じゃないと思うけどね」
 それでも。
 可能性としては、1番ありそうな線だ。
「…やはり、そうか」
 呟きを残して、久蔵はその銃を手に取った。
「表面の錆びはふき取られたようだが、内部の錆びはそのままだ。取引用に見た目だけは整えたんだろう」
「ご隠居、ほな…」
 哲平が声を上げかけるのを片手で制して、銃を袋に収める。
「まだ決まったわけではない、が……ないと決め付けてかかるには、少し疑惑も出てきたようだな」
「……」
 可能性は、ゼロではない。
 そう聞かされ、恭介は沈黙する。
 紙袋に入ったそのあまりに重い塊を、じっと見つめて。


『……真神くん』


 呼ばれたような気がして、すうと背筋が冷えた。
 ありえない、しかし鮮明なその声に、心臓が悲鳴を上げそうな速度で拍動する。



(怖い…?)

 違う、恐怖ではない。

(では、何)

 予感?

(…いや、そうじゃない)

 では、何?

(………記憶、だ)



 この身体に残る、この脳裏に残る、消しきれない怒りや、悲しみの記憶。
 奪われた命。奪われた少女の幸せ。奪われた望み。救えなかった全て。

 それが締めつける。心臓を、指先を、それから脳を、全て。


「……恭ちゃん!」

 触れていた哲平の指先が不意に力を増した。
 答えるように頷いて、頭を何度も振る。
 まだ、戻って来れる。まだ。
「大丈夫」
 記憶には、それ以上の意味はない。現実になるわけでもない。それが例え限りなく可能性の高い想像でも、確認しない限りは。
 あそこで、死んだはずの存在を。
「ご隠居」
 引きずり落とされる前に、恭介は声を上げて現実に戻る。
「無理は承知なんですが…。この銃」
「ああ、わかっておるよ。まあこの様子だと使い物にならんし、持っていっても大丈夫なように話はつけておこう」
「ありがとうございます」
 頭を下げると、まだ少しだけ目眩がした。

 その後、誠司のヒントが示すかもしれない意味や、氷室との会話をぽつぽつと語りながら、あまり箸の進まない食事をようやく終えた頃には、1時を過ぎていた。
 恭介は挨拶もそこそこに暇を告げることにして、席を立つ。
 玄関で靴を履いて振り返ると、見送りに出てきた哲平が、いつものように小さく笑った。
「ほな、夜にな。アレは、オレ持ってくから」
「…頼む」
 返した言葉の重さに、少しだけ哲平の眉が寄せられる。しかしすぐに振り捨てたように笑み戻して、ジーンズのポケットに手を入れた。
「オレねーさんに呼ばれとるから、調査付き合われへんけど」
「ああ、いいよ大丈夫。じゃあ夜、ハードラックでな」
「車に気ぃつけてなー」
「……馬鹿」
 言って上げた掌に、哲平の掌が合わされる。
 久々に交わしたハイタッチに安堵と頼もしさを分けてもらった気がして、恭介は哲平の笑顔に笑みを返した。





 恭介を見送って久蔵に声をかけてすぐに、哲平は家を出た。ほどなく見えた店内は、すくなくとも営業中で最小限のあかりが灯っている。
 それでもまだ暗い店内へと、扉を潜って入りこんだ。
「ねーさーん」
 奥へ向かって声をかけると、ヘルシングを抱いた成美が顔を出す。
 その顔は何故か上機嫌だ。
「ああ、1号」
「何か用ですかー?」
「ヘルちゃんのゴハン」
「…へーい」
 それなら電話で言ってくれれば買ってから来たのにと思いつつ口にしないまま、哲平はひっそりとため息をつく。預かっている金額はあといくらだったかと考えながら身体を翻すと、後ろから声が追って来た。
「ねえあんたたち、何調べてんの?」
「……は、あ?」
 思わぬ攻勢に動転して、哲平は思わず素っ頓狂な声を上げる。振り向けば、ヘルシングを抱きなおした成美がゆったりと意味ありげに笑っていた。
「京香、でしょ」
 何か、知っている態度だった。きっかけを掴んで、しかも何かを確信している。哲平は頭を掻いた。
「…ねーさん、趣味悪いですよ」
「あら。何それ。せっかく京香の話、聞かせてあげようと思ったのに」
「…え」
 言葉に、今度こそ哲平は立ち尽くす。成美はヘルシングの頭を撫でながら、ねー、と話しかけた。
「ねーさん、京香ねーさんが、何か」
「あの子ならこないだうちに来たわよ」
「来たって…」
 成美がヘルシングから手を離す。あぶなげない足取りで店内をかけまわるヘルシングに目を細めるその姿に、哲平は真意を計りかねて眉を寄せた。
「いつですか?」
「んー。二日前かなあ? 変なモノ持ってきたわよ」
「変なもん…?」
 そ、と頷いて、成美は隅に寄せられたCDラジカセを指差す。
「CD。ラベルに何も書いてなかったし、曲が入ってただけみたいだったけど。あんまり退屈な曲だったから、途中で止めちゃったのよね」
 あれもついでに片付けといてーとそっけなく言う。哲平はそれに頷く前に、更に重ねて問いかけた。
「どんな曲だったんです? なんで、京香ねーさんは成美ねーさんに、それを?」
「知らない」
 あっさりした返事に、ため息をつく。
「…何も言わはらなかったんですか?」
「そう」
 またも一言で済んでしまった返事に、哲平は眉尻を下げた。
「ほら、情けない顔しない」
「んなこと言われても…他になんか、言うてはらなかったんですか?」
「一緒に手紙がどうとかぐらい。後は…CDの曲は辛気臭くて素人仕事っぽかったわね。それと、あたしのところに京香が一人で来るなんて事自体が、変でしょ」
 自分で言うのも世話無いけど、とは口には出さず、哲平は頷くに留める。
 また謎が出た。
 正直そう愚痴も零したくなるような状況に、哲平は携帯電話に手を伸ばしかける。
『大丈夫』
 ふと脳内に戻ってきた声に、その指先を止めた。夜、落ちついて話せばいい。そう自分に言い訳して。
「ほらほらぁ、せっかく教えてあげたんだから、さっさとヘルちゃんのごはんー」
「へーい」
 引き戻されるその声に少しだけ感謝しながら、哲平はおそらくご飯を期待して纏わりついてきているのだろうヘルシングを抱き上げて、成美に手渡した。
「ほな、行って来ます」
「帰ったらアレもね」
「…判ってますわ」
 隅に追いやられたCDラジカセに視線を投げると、哲平は苦笑を落とした。



「…と、言うわけなんやけどな」
 ハードラックの薄暗い照明の中で、説明を終えた哲平は小さく息をつく。
 紫宵はまだ、姿を見せていない。恵美は先ほど合流したばかりで、上機嫌で酒を飲んでいた。何かよほどいいことがあったらしく、哲平にも余り構ってこない。ただ、哲平や恭介の話は聞いているようで、時折真剣な顔つきになったり、相槌を打ったりしていた。
「そっか……」
「恭ちゃんは、何かあった?」
「ん。そのことなんだけどな…。しげ…エミーさん」
「なあにぃ?」
 怖いくらいに上機嫌の恵美にややびくつきながら、恭介は口を開く。
「頼まれてる猫なんですけど、今日、数見町のコンビニの店員さんが見かけたそうなんです」
「そうなん?」
「うん、偶然なんだけど、サイバリアで奈々子に聞いてるところにそこの店員さんがいてさ。聞いたら、見たことあるって。…明日はあのあたりを中心に回ってみますから」
「…数見町、ねえ」
 恭介の報告に意味ありげな呟きを残して、恵美は口をつけていたグラスを置いた。
「あたしの方からも一つ情報、あるのよ」
「! ほ、本当ですか!」
「その前に、時系列整理させてもらいたいんだけど、いい?」
 言いながら、恵美はいつも持ち歩いているらしいメモ用紙とペンを取り出した。
「あの子供がサイバリアに行って空振りしたのが、8日?」
「いえ、7日ですね。8日は二回目です」
「そ。じゃあ、変な人影見たってのは8日なわけね? 何時ごろ?」
「判らないですけど、夕方だと。サイバリアに行こうとしたってことは、奈々子がいる時間ですし」
「そう。…で。この日森川ってコの部屋に空き巣が入った」
「…はい」
 並べると、7日に紫宵が銃を持ち出したが奈々子に会えず、8日にもう一度尋ねようとして人影を見失い、その日に森川宅に、空き巣。
「空き巣が入った時間は?」
「特定できてないみたいです。大家さんも、通りかかったときにドアが半開きだったから気づいたらしくて。普段は気にも止めてないと。発見したのが確か夜の8時頃で、その後、警察が来てますから」
「ふうん。ま、あの辺りは昼間も人通りそんなに多くないしね。で、そのCDが持ちこまれたのが9日…っと」
 こうして見ると、この数日の間に本当にたくさんの出来事があったと再認識させられる。恭介は時系列を上から読み返して、ん〜、と唸った。
 その間に恵美はペンで細かい時間を書き終え、最後に空き巣が入ったとの表記をペン先でとんとんと叩く。
「ここ。…あのアパートの近くで7時頃、不審そうな女の目撃証言、あるって」
 おんな、と繰り返して、恭介はペン先に綴られた空き巣の三文字をじっと見つめる。
「不審そうなて…どういうヤツやったんや?」
「んー。きょろきょろ躊躇ってるみたいだったとか聞いたわよ」
「迷子とか」
「さあ、そこまではっきりした情報じゃないから。ただ、空き巣事件のことを知らない人からのネタだから、そういう色目がなくても怪しく見えたって事で、少し真実味、あるんじゃない?」
 空き巣があったかもしれない、その時間の前後に目撃された女性。
 不自然かもしれないが、それだけで疑惑を高めるには弱すぎる。恭介は時系列を書いたメモを眺めながら小さく息を吐いた。
「まあ不思議なのは、その女が7時から30分ぐらいずっといたらしい、ってことなのよねー」
 迷子ならもっと早く移動するでしょ、との指摘に、恭介は頷いてついに考え込む。
「特徴とかは…?」
「白のコートはおってたって。髪はまとめてるのかショートなのか判らないけど、少なくとも下ろしては無かったみたい。マフラーとかは証言ばらばらだけど、これは着けたり外したり出来るでしょ。メインの特徴があってて、すくなくとも3人は見てるから、同一人物がずっといたってことになるんじゃない?」
 すらすらと上げられる特徴を頭の中で形にしようとして、まず哲平が投げ出した。
「アカン、ダメや」
「うーん…顔とかの特徴はないんですよね?」
「暗いしねえ。街灯もなかったみたいだし」
 そこで打ち止めだったのだろう。どこへ向かうともなく、会話は途切れた。

 ばーん!

 けたたましい音を立てて、入り口の扉が開かれる。丁度沈黙したところで余計に響き渡ったそれに、一同がぐるりと振り向いた。
 昨日の落ちこみようはどこへやら、紫宵が胸を張って開け放たれた入り口に立っている。
「何だ何だ! 元気が無いぞ見習い!!」
「……おかげさまでね」
 ため息をつきながら、恭介は哲平に目配せする。頷いた哲平が、隣の席に置いてあった黒い紙袋を、紫宵によく見えるように差し出した。
「探し物や」
「…あ!!」
 驚きと、歓喜と、それから不安がない交ぜになったような複雑な声を上げた紫宵が、小走りに駆け寄ってきて紙袋をひったくった。
「ほ、本物か!?」
「…間違いなくね」
「……うわあ」
 顔がうっすらと上気している。こういうところは子供だなと恭介が苦笑していると、哲平が横から手を伸ばして、その紙袋を少し傾けた。
「…ガキ。これ見ぃ」
「……え」
 奈々子と一緒に見るんだと言い張っていた紫宵が、つい釣られてその中を覗きこむ。
「哲平っ」
「ええから。…何が見える?」
 恭介にやんわりと釘を刺してから、哲平は紫宵に尋ねた。しきりに首を捻って、紫宵は更に紙袋の中を傾けて覗き込む。
「んー…暗くて良く見えないぞ………ああっ!」
 ほとんど顔を嵌めこむようにして覗いていた紫宵が、紙袋を放り投げた。危なげなくキャッチした哲平が、紙袋の体裁を整える。
「エライもん無くしとったんやで、クソガキ」
「な、な、だ。だってっ…おじい様、宝石屋からっ」
 意識していないところに拳銃だったからか、紫宵は目に見えて動揺している。
「そこやな」
 哲平は紙袋を弄びながら、紫宵にく、と詰め寄る。
 詰め寄られた紫宵は半歩身を引いた。
「な、なんだよ」
 上ずった声を出すその顔と目線を同じにして、哲平は更に顔を近づけた。
「宝石屋が銃売るなんて聞いた事あれへん。…何か理由があるはずや。お前、聞いて来れるやろ」
「哲平!」
 恭介が非難するように声を上げる。哲平は、分かっているとでも言うように肩を竦めた。
「せやかてそれ以外に方法あれへんやん。大丈夫や、前もコイツ、上手くやってたやろ。なあ?」
「……う、う……ん」
 すぐ近くにある紙袋が脅しの道具にもなっているのか、紫宵はやや曖昧に頷く。
「探してきてやったんやし、それぐらい出来るわなぁ?」
「……っ、や、やってやるよ。 ぼ、ぼくも気になってたしな!」
「…脅すなよ、哲平…」
 半ば自暴自棄になってそう告げた紫宵を気遣って、恭介は思わずそう言葉を漏らした。しかし、哲平は悪びれた様子もない。
「無くしてシバかれるより100倍マシやろ。…返すで」
「わ、わっ!」
 無造作に放り投げられた紙袋を上手くキャッチして、びくびくと外から眺め渡す紫宵。
 もう一度その中身を恐る恐る覗いて、紫宵はふとその目を細めた。
「………あ、れ?」
「ん?」
「な、なあ見習い。この袋の中に、他に何か入っていなかったか?」
 いきなり態度の変わった紫宵に、恭介はぽかんと間の抜けた声を上げる。
「……何も無かった、んじゃないかな。なあ哲平」
「ああ。なんや、何かあったんか、他に。でもお前見てへんかったんやろ?」
 哲平も不思議そうな顔で、足元の紫宵を覗き込む。
「中は見てないんだけど。奈々子さんに渡すもの、拾ったから…」
「……」
 昨日も感じた何となく嫌な予感に、哲平と恭介は自然顔を見合わせる。
「…ちなみに、何を?」
「……怪しい人影追いかけていく時に、奈々子さんの名前が入った紙、拾った…から………え?」
 言葉の途中で、まず恭介が、続いて哲平が力が抜けたように天井を仰ぐ。
 呆然とその様子を見上げ、紫宵は首をかくり、と横に倒した。
「何だ?」
 問われても、二人ともすぐには言葉が出ない。
 再び酒に手をつけていた恵美が、からかうような声を投げた。
「名前は読めたんだ?」
「ぼくは日本語読めるし書けるぞ! その証拠に、奈々子さんの名前にはしっかり二重丸しておいたんだから!」
「あああ…やっぱり……」
 見つけたときのストーカーという発想は、当たってはいないが外れてもいなかったらしい。恭介は重いため息を一つつくと、切りかえるようにまだ放心している哲平を振り向いた。
「ほら、哲平。まだ直接持ち出したのが誰かとかは判らないんだから」
「んなこと言うたかて〜。ここまで重なったらさすがに…」
「……まあ、ね」
 気持ちは判らないでもない。恭介はもう一度ため息をつく。
「ほらほら、そんな風にしてたって何も判らないわよ? 考えても無駄なら、とりあえず今日は飲んじゃいなさい」
 言いながら、恭介達が飲み残しているグラスを押し出してくる恵美。

「……そう、ですね」

 白いコートの、ショートか髪をアップにした、女性。
 もし、調査票を拾ったのがその人物で、なおかつ不審者の正体も、その人物だとして。

 最近京香が好んで着ている、白のハーフコートを思い出す。
 特徴は、当てはまっていなくはない。
 最近の京香が様子がおかしいのは、もしかしたらそれに起因するところもあるのではないだろうか。

 恭介はそこまで考えて、らちもあかないと首を振った。
 未だ耳の奥にこだまするあの幻聴とも言える声が、自分を焦らせているとも、苛立たせているとも思えて。


(明日……それとなく、聞いてみよう)


 恭介はジンライムのグラスを傾けて、彼にしてはやや早いペースで、喉に酒を流しこんだ。







――――Next.

 
出てきそうな単語が、ようやく出てきましたね。

威。

もう折り返しを過ぎました。もうすぐゴールが見えそうです。
はあー。長かったあ。
今回の話は今までで最長です。ものすごい難産でした。
更に伏線も増えました。
最後の最後まで開けないカードもあるので、おそらく判る人はほとんど居ないんじゃない…かなあ。
先の展開がわかっちゃった! って方は是非とも小田まで。これで判ったらスゴイ。