寝不足だと言う彼に理由を問うたら、一言。
「変な夢を見たんだ」
 そう呟く彼の様子は、彼自身が言う通り怖い様子ではなく、どこか、幸せそうだった。






 伝言





 小さく笑んだ、その表情がすこしだけ痛々しかった。
 膝をついて視線を合わせて、抱き返したら腕に力がこもった。
 だからその腕を外すことが出来なかった。何度も何度もその背をあやすように撫でて、ごめんねと呟いた。

 その子は泣かなかった。ただ一言、ありがとうとだけ呟き返した。






「…そんで?」
 促された言葉に、恭介は瞬きで返した。
「それだけだよ」
「変な夢やなー」
「うん」
 夢に、意味は無い。そう言い聞かせながらも、奇妙な違和感に恭介は軽く頷く。
 調査を終えて事務所へ戻ると言った恭介に何故かうきうきとついてきた哲平が、京香の淹れたコーヒーを飲みながらのほほんと返した。
「他に状況とか覚えてへんの?」
「そうだなあ、真っ暗だったから。…道路っぽかった気はするけど、よく覚えてないよ」
「…ま、夢は夢、ってことなんやろけどな。あー、夢見て泣いた言うからびっくりしたわー」
「泣いてないっ! そうじゃなくて、なんだか…ひどく暖かい気持ちになったって言うか」
 ひどく心地よかったのは事実だった。そこにいて当たり前だと思えるようなその子が、男だったか女だったかも覚えてはいないのに、抱き寄せた時の温かみとか、呟いた声音がひどくやさしかったこととか、そんなことだけは鮮明に覚えている。
 だから、暖かいという表現になったのかもしれない。
 恭介は手元のコーヒーを、両手で覆うようにして一つ息をついた。
「…心地よかったよ」
「ん、ならええ」
 意味などわからなくても、その温もりは嘘じゃなかった。
 ただひとつ、自分が何故謝ったのか、それだけが不可解なだけで。

「真神くん」
 呼ばれて振り返ると、給湯室から大量のクッキーを抱えた京香が顔を出した。
 少し多い、じゃなく、もはや山盛りの域を越しているその量に、恭介も哲平も瞬間顔が引きつるのを自覚する。
「…作りすぎちゃったんだけどね」
「……はい」
 たっぷり2秒は間を空けて、恭介は頷いた。
 カレーにはじまる京香の作りすぎ癖は、お菓子にまで侵食していたらしい。
「ちょうどいいかと思うの。…あの、いいかしら、白石くん」
「…あ、そうですね。ほんなら、もう行きますか?」
「そうね。真神くん、行きましょう」
「…………は?」
 今度は5秒ぐらい間が開いていた。
 どういう意味か飲み込めずに返答に窮していると、哲平がコーヒーの残りをあおってから立ちあがる。そのまま、腕を引いて恭介を立たせると、笑いながら背を押した。
「はいはい、出発〜」
「…いやあの哲平!?」
「ええからええから」
 何がいいのかも良く分からないまま、背中を押されて勢いで一歩踏み出す。あとはふらふらと押し出されて、事務所を追い出されてしまった。鍵をかけてクッキーを持った京香が、後を追ってくる。
 事務所を出てからは、先導するように哲平が少し前を歩く。
(…なんなんだよ、一体…)
 楽しそうにしている二人からは、何か企みの影が見え隠れする。
 恭介は自分の推理癖をあえて放棄した。何か楽しませようとして、それで隠し事をしているのなら付き合おう、そう思って。
 見上げた空には、そろそろ夕刻の気配が近づいてきていた。




 その子は泣かなかった。ただ一言、ありがとうとだけ呟き返した。

 その後は?




 恭介が連れてこられたのは柏木邸のいつもの座敷だった。おだやかに笑っている久蔵と、どこか不機嫌な成美が出迎える。
「ご隠居、お久しぶりです」
 哲平からもう随分良くなったとは聞いてはいたが、恭介はあえて遠慮して敷居をまたがなかった。自分がそのつもりはなくても、結果的に騒ぎを引き起こしてしまうことはままある。身体に障るようなことはしたくなかった。
「おお、真神くん、待っとったよ」
「……はい?」
 ここでも交わされる不自然なやりとりに、ぶすっとしたままの成美が口を挟む。
「あたしお腹すいたんだけど」
「お前は…もう少し待てんのか」
「もう散々待ったでしょ。本人も来たんだしいいじゃない。ほら恭介! 座りなさいよ」
「…え、えっ…」
 不機嫌絶好調の成美に、言われるままとりあえず席につく。京香が何か反論するかと身構えていたが、ふっと振り向けば京香はいなかった。代わりに哲平が、ご愁傷様と言いたげな視線を投げている。
「とにかくあたしはお腹がすいたの! ごはん!」
「…哲平、支度してもらいなさい」
「はい」
 座りかけた哲平が、また席を立つ。恭介は落ちつかない気持ちのまま、不機嫌そうな成美と久蔵を見比べた。
「あの」
「ん?」
「…俺、実はよく状況が飲みこめてないんですけど」
 その言葉を発した途端、隣に座る成美の放つ不機嫌オーラが増大した。
 恭介は思わず身体を浮かせて、不自然に成美から距離を取る。
「まあまあ、もうちょっと待っておればよいよ。すぐに分かる」
 苦笑した久蔵がそうたしなめ、恭介はこれ以上の発言は墓穴と察して頷いた。
 成美は足元に擦り寄ってきたヘルシングをじっと撫でている。
(…怖い)
 暴れている時とは違い、気配は静かなのに果てしない威圧感を感じる。
「真神くん、疲れてるようだが大丈夫かな?」
「え? ああ、いえ…ちょっと変な夢見て、寝てなくて」
「…変な夢?」
 世間話程度に持ち出した昨晩の夢の話に、成美が眉を寄せて聞き返した。 少し霧散した不機嫌な空気に安堵しつつ、恭介は頷いて夢の話をする。
「……」
 成美は黙って聞いていたが、子供が「ありがとう」と言ったというくだりでふと目を見開いた。
「…ありがとう?」
「…はい」
 そう、と頷いて、黙り込んでしまう。
 先ほどまで纏っていた不機嫌な空気の代わりに、戸惑いが混じっていた。
「成美さん?」
「なんでもない」
 ぴしゃりと言いきられて、今度は恭介が黙り込んだ。
 喧嘩ともいつもの不機嫌とも違う雰囲気に、どう返していいかわからなくなる。
 その空気に気づいたのか、ため息をついた成美が顔をあげて恭介を見た。
「あんたロリコンだったのね」
「……はあっ!?」
「だって子供相手に安心したんでしょ?」
「いや、だって、そーいう話じゃ…!」
 慌てた恭介の言葉に、久蔵の明るい笑い声が被さる。
「恭ちゃんロリコンやったんかー」
 料理の乗ったお盆と共に、からかうような口調で哲平が座敷に入ってくる。
「だから男か女かもわからないんだって!」
「男やったらもっとやばいやろ」
「っていうか、そもそも恋愛感情とかそういうんじゃ…!」
 次々と並べられていく料理を見ながら、恭介はふとその料理に首を傾げる。
「…これ」
「はい、これで最後ね」
 京香が最後の一皿を持ってきて席につく。
「うちに通いで来てくれとる、手伝いのは知っとるだろう」
「…あ、はい」
 料理が机に並ぶのを待っていたかのように、久蔵が切り出す。
 恭介が頷いたのを見て、その相貌を柔らかく崩しながら箸を勧める。
「君に、食わせてやってくれって言ってな。みんな君の好物だそうだが」
「…はい?」
 好物を振舞われる理由に思い至らず、恭介は今日何度目かの間の抜けた声をあげる。
「嫌だ、真神くん、もしかして本当に…分かってないの?」
 間の抜けた声に、京香が目を丸くして返す。
「…え?」
 更に間の抜けた声を返した恭介に、哲平が堪えきれないと言う様子で吹き出した。

「恭ちゃん…誕生日、おめでとさん!」

「………」
「………」
「……真神くん?」
「……あ、そうか」
 感慨も何もなくぽつんと零された言葉に、拍手をしようと構えていた哲平が、がくりと脱力する。
「…そうかって……」
「いや、そういえばそうだなって」
 繰り返すうちの日常の「一日」になってしまっていたことを、改めて実感する。
 去年までも誕生日を祝ってくれる相手はいたし、そのたびに思い出してはいたが、毎年この時期になると忘れてしまう。
「…や、恭ちゃんがボケなんはいつものことやし」
 そう返して、あらためて哲平が声を上げる。
「とりあえず、真神くん、お誕生日おめでとう」
「ああ、おめでとう」
「一つ年取る事がおめでたいのか分からないけど…まあ付き合ってあげるわ。おめでとう」
 振ってくる賛辞の言葉に、恭介はしばらくぽかんとしていたが、そのうち笑みを浮かべる。
 ありがとう、と言葉が落ちて、今度こそ哲平の拍手が鳴り響いた。





「…ねえ、恭介。ちょっと付き合いなさい」
 食事中に出てきた酒に一切手をつけず、いつもの勢いとはまったく別の様子の成美に声をかけられ、恭介は怪訝そうに問い返した。
「付き合うって、あの」
「いいから」
 成美はそれだけを告げて、恭介の襟首を引っ張って歩き出す。
 慌てて体制を整えて立ちあがった恭介は、哲平に目配せをする。それに答えた哲平が不服そうな京香にまあまあと酒をすすめている様子に目だけで礼を言って、縁側に出た成美の後を追った。
「…あの、成美さん?」
 月明かりの中で、静かに立つ成美の後姿に、後手に襖を閉めながら声をかける。

「…」

 言葉はゆるやかな闇に溶け、一瞬恭介はそれを聞き逃した。



「成美さん…?」
「…ありがとう」



 言葉に、恭介は踏み出しかけた足を止める。
 声音にも、アクセントにも、それからその口調にも聞き覚えがあった。
 優しくて柔らかな。



「…なるみ、さん…?」
「……ごめんね、でしょ」
 振り向いた成美は、かすかな笑顔だった。
「………」
 夢と同じように、その痩躯を抱きしめようとして、ふと我に返る。
 これは夢ではなく現実で、目の前に立つ女性はもう、大人だ。
 代わりに一歩だけ踏み出して距離を縮め、頷いて。
「…ごめんね」
 呟くと同時に、成美は満足そうに笑った。






「変なところでシンパシーなのかしらね」
「…一応、姉弟ってことじゃないんでしょうか」
「…毎年ね、あんたの夢見てたのよ。あんたが出てきて、あたしに話しかけてた」
「え」
「あたしの誕生日の方だけど。…今年はそれがなかったかわりに、昨日、同じ夢を見たのよ」
「……」
「これで、終わりね」
「ええ。…きっと」




 きっと、自分は謝りたかった。
 幸せを僅かでも、自分が一人占めしていたことに。

 きっと、自分は感謝したかった。
 幸せを一つでも、残してくれていたことに。




「恭ちゃん、成美ねーさん、外冷えるからご隠居がはよ戻れ言うてます。京香ねーさんのクッキーも全然減りそうにないんで」
 襖を僅かに開けて顔を出した哲平を振りかえり、恭介は小さく笑う。



「ありがと」
「…そうね」



 柔らかに笑った二人の顔に、哲平は僅かどきりとする。
 その笑顔が、予想外に、そっくりで。



「戻りましょうか」
「はいはい」



 いつものノリに戻って、笑い返す。
 その笑顔は既に似て非なるもので。



 ありがとう、ごめんね。


 お互い自己満足の言葉だけれど、きっとそれが、何よりも伝えたかった、ただ一つの言葉。


 
 







――――End.

 
恭ちゃん、ハッピーバースデー。
…で、いいのか、これは。



全てを言葉にする必要なんて無くて、ただ、幸せをかみ締めて。
そういう夜も、たまにはいいですよね。
別にテレパシーとか信じてるわけじゃないですけど。

でも、こんな不思議な夜も、あってもいいかなって、思うんです。

 
ああ、なんだか支離滅裂…。
とにかく、お読み頂いて、どうもありがとうございました!