その日、外はとてもいい天気で。
 綺麗に晴れ渡った青空を、開け放った窓越しに眺めながら。



 俺と京香さんは二人、事務所の中を掃除していた。









 06:月と海





「いい天気ねー」
 京香さんはデスクを拭く手を止めて、窓から入りこむ日差しに目を細めている。
 ファイル棚の上を拭き終えた俺は、ちょっと背伸びしていた身体を戻して上着の埃をはたいた。
「絶好の掃除日和ですよね」
「そうね」
 答えた京香さんは振りかえって俺の顔を見た。
 そこで苦笑を漏らす。
 ……そんなに嫌そうな顔してるかな、俺。
「退屈?」
「いえ。掃除するのは、嫌いじゃないですよ」
「でも、真神くん調査に行ってる方がのびのびしてるわよ」
「……」
 実際その通りだから言い返せない。
 どう返していいのか分からなくて沈黙した俺に、京香さんは笑顔を向けた。
 なんとなくその視線が気恥ずかしくて、視線をそらして再び拭き掃除を再開する。
「…成美とは大違いよね」
「……え?」
 …珍しいな。京香さんから成美さんの話振るなんて。
 そう思って京香さんの方を見たら、その視線は窓の外に向かっていた。 
「ねえ真神くん」
「……はい」
「成美ってあなたのお姉さん…になるのよね?」
「え? え、ええ」
 …いきなりどうしたんだろう、京香さん。
 ちょっと間が空いて、何か言おうと思ったら、窓の外に向いてた京香さんの視線がこっちに戻って。
「杉内さん、っていうお名前のご両親から生まれた、正当な姉弟なんでしょう?」
「正当って……」


 実感はまるで無いけど、俺と成美さんは姉弟で。
 しかも腹違いとかじゃなくて、両親ともに同じで。
 …俺は顔とか性格とか、全然似てないと思うんだけど…。
 それでも、反発もなくすんなり納得できたっていうあたりは、やっぱりどこか、俺の身体が覚えてるのかもしれない、と思う。


 大切な人だったんだ、と改めて分かって。
 もちろん、そうでなくても成美さんが大事な人には変わりなかったんだけど。

 繋がっている絆があると分かっただけで、どこか安心してしまう自分がいる。


 じいさんが死んでから、俺の家族は本当に誰も居なくなったと思っていたから。
 だから…実のところ、嬉しかったりもするんだけど。

 京香さん相手には、ちょっと…言いづらいよな。




「そう…ですね」
 俺は迷った末、結局あいまいに頷いた。
 京香さんは俺の答えを聞いて、複雑そうな視線を俺の方に戻してくる。
「…二人とも、杉内姓に戻るとか、真神姓に統一するとか…しないの?」
「は?」
 意図が飲み込めなくて思わず間の抜けた声を上げたら、京香さんは慌てたようにぱたぱたと手を振った。
「えっとね、だから………」
 どうにも上手く説明できないらしく、幾度か口篭もる。
「…せっかく会えた姉弟、なのに…」
「……ああ」
 …なんだ。
 京香さんが姉弟らしくない俺達を心配しているんだ、とようやく飲み込めて、俺は苦笑する。

 確かに俺達は姉弟で、その絆はもう認めざるを得ない。
 だから、京香さんの言う通り、俺達が姉弟として…何か一つの形に収まることは、本当は難しいことじゃないと思う。

 でも…確かに姉弟と認めてはいるけど。身体は多分、覚えているんだけど。
 それとは話が別なんだ。


「すぐには、変われませんよ。俺も成美さんも。……いや、成美さんは一生あのままかもしれませんけど」
「…それは、その……」
 さすがに姉弟と判ってからは、俺に向かって成美さんの文句を言うことは減った京香さんが、何かを言いかけて口篭もる。
 俺は苦笑して、雑巾を置いた。
「休憩しましょうか」





 使っていた雑巾を濯いで手を洗うと、使い慣れた事務所の給湯室でお茶を入れる。戻ってみると、京香さんは手持ちぶさたな様子でソファの側に立っていた。
「お茶、入りましたよ」
「あ……ありがとう」
 京香さんを促して、向かい合わせにソファに座る。いつも片方を占領している所長は、ファイル整理を押し付けられる前に逃げ出していた。
 悲しいことに、つまりそれだけ事務所は暇だと言うことだ。
「京香さんは、一人っ子なんですよね」
「え? ええ」
 話を振ると、唐突さに目を見開いた京香さんは湯飲みを手に持ったまま頷いた。
「兄弟、欲しいですか?」
「…そうね…羨ましい、とは思うけど…。どうしたの、いきなり」
 じゃあ、効果あるかもな。
 あまりいい喩が思い付かなかったんだけど……ごめん、哲平。
「もし、ですよ。もしも…いきなり、哲平が自分の弟だって言われたらどうします?」
「ええっ! し、白石くんが!?」
 ひっくり返った声を上げて、京香さんはあやうく湯飲みを落としそうになった。
 慌ててテーブルに置き直しながら、深呼吸してる。
 …そんなに構えなくても。
「そうね、喩よね。……ええっと……びっくり、するかなあ」
「えっと、そうじゃなくて…哲平に「お姉ちゃん」って呼ばれたいですか?」
「えっ!? ………」
 驚いた叫びを最後に、京香さんは完全に沈黙してしまった。
 固まってる。
「京香さん、あの……喩ですからね」
 さすがにショックが強かったかな…。
 一応フォローを入れると、京香さんはがくがくと頷いた。
「あ。う、うん、そうね。喩ね。それは……こ、困るわね」
 引きつった顔。
 ……想像の中で、哲平はかなりすごいことになってたらしい。
 いや、確かに俺も京香さんを「お姉ちゃん」なんて呼ぶ哲平は見たくないけど、問題はそこじゃなくて。
「成美さんも俺も、同じです。いきなり「姉弟だから」って言われて、なかなかすぐには姉弟らしくなれないですよ」
 成美さんはただでさえああだし、多分一生「姉」とは呼ばせてくれないだろう。
 一度くらい姉さんって呼んでみたい気持ちがないわけじゃないけど、でもそれ以上に俺自身も、今までの成美さんの印象の方が強くて、弟だって人に紹介されてもぴんと来ないし。
「成美さんには、今まで「月嶋成美」として生きてきた時間があるし、俺にも、真神で育った時間があるから……。なかなか一つにするのは難しいですよ」
「…そうよね」
 湯飲みを見下ろして、京香さんは頷いた。
「ごめんなさい、変なこと言って」
「そんな…ありがとうございます。俺達のこと、気にしてくれてたんですよね」
「…ううん、ちがうの」
 …え?
「……真神くんが、真神くんでなくなったら嫌だなあって……そう思っただけ」
「……京香さん」
「お父さんも戻ってきたし……もともと、真神くんはうちに依頼に来てくれたんだし。お姉さんも見つかって、家族のことも全部分かって……。だからね、例えば成美の店に移って、手伝うとか…そういう事もあるのかなって」
 そう言って寂しそうに、京香さんが笑う。



 確かに言われてみれば、俺はもともと調査員として就職するためじゃなくて、あくまで依頼に来てたわけで。
 …もちろん、弟子にして欲しいって思う気持ちも無いわけじゃなかったけど…。

 ここをやめる、だなんて……今京香さんに言われるまで考えたことも無かった。



「…成美さんの店に行ったりしたら、俺、餓死しちゃいますよ」
 俺の言葉に、京香さんはちょっと目を見開いて笑いを収めた。
 …悲しいけど、事実だよな…。
 あの人は、俺に給料を払うなんて事をそもそも考えてもいない。
 ペンダントだって見つかったんだから、もう成美さんの店で雑用する理由はないんだけど……未だに、働かされてるし。
 むしろ姉弟だからって分かってからはもっと人使いが荒くなったような気がする。
 それを断れない自分もちょっと悲しいけど。



「それに、俺、探偵続けたいんです。……駄目ですか?」


 俺がそう言うと、京香さんは大げさなぐらい首を振った。
「だ…駄目なわけないじゃない!」
 …良かった。
 もしここで「駄目よ! せっかく会えた姉弟なんだから!」って言われたらどうしようかと思った。



 …そんなこと無いって、分かってはいるけど。



「じゃあ…これからも、よろしくお願いします」



 きっかけはどうだろうと、俺は探偵で。
 生まれがどうだろうと、大切な人は変わらず、大切な人で。
 守りたい暮らしが、ここにはたくさんあるから。

 だからまだ。


「……うん」


 京香さんは頷いて、ゆっくりと笑ってくれた。
 俺もそれに笑い返す。



 ちょうどそこで、携帯電話が鳴り響いた。





「……あ」
「……え?」




 ディスプレイを見て、思わず固まってしまう。
 京香さんも一瞬不思議そうな声を上げたけど、すぐにわかったのだろう。おもいっきり眉を顰めた。
 何となく恐縮しながら、携帯の通話ボタンに指をかける。


 ピッ。


「……はい、真神…」
『2号、今日スピリット集合ね』
「えっ、ちょ、ちょっと成美さ…」



 ……あっさり切れた。



「……成美?」
「は……はい」




 頷くと、重たくて気まずい沈黙が落ちる。

 ど…どうしよう。
 …これは……やっぱり、怒ってる…のかな。



「あ……あの」
「……ぷっ!」


 何か言おうと口をあけたところで、京香さんが不意に吹き出した。



「きょ、京香さん?」
「ふふっ、タイミングいいわね。見てたみたい」
「……」
 何とも返答しづらくて沈黙すると、京香さんは空になった湯のみを持って立ちあがる。
「行ってらっしゃい、真神くん」
 ……え?
「い、いいんですか?」
「いいも何も、しょうがないでしょ。…それに」
 小さく笑う顔は、どこか悪戯を思いついたような顔で。


「真神くんは、どこにいたって鳴海探偵事務所の一員ですものね」


 ……やられた。


「……はい」
 思わず吹き出して頷き返すと、京香さんは押し殺しきれなかった笑いと共に給湯室へと消えた。



「じゃ、すみません。お先に失礼します」
 身支度を整えて声をかけると、給湯室から聞こえる水音が一瞬止まる。
「ええ、飲みすぎないようにね」
「はい」
 返答に頷いて、事務所を後にした。





 とおば東通りに降り立つと、窓を見上げて携帯電話を握り締める。

 そこには。

 今はまだ、告げることは出来ないけれど。



『…そうね…羨ましい、とは思うけど…』



「行ってきます」




 戻ってくるための、挨拶をして。
 俺は空を見上げて、歩き出した。


 まだ落ちきらない陽も、もう少しすれば沈むだろう。
 あまり夜は出歩かない京香さんはそうしたら家に戻る。
 日が落ちてからは、成美さんの時間だ。



 明るい海と、静かな月。



「……本当に、贅沢だな」







 俺には戻る場所が、二つある。



 それは今までの俺からすれば、とても……ほんとうに、とても贅沢で。








「いってきます、姉さん」




 冗談めかしてそう告げて、俺は歩き出した。
 スピリットに向かう足取りは、久々に軽かった。






――――End.

 
…なんだろう、このオチは。

成美さんがお姉ちゃんってのはもう変えようも無い事実なんですが。
ああ、京香さん寂しいだろうなあと何となく思っちゃった結果がこれ。

恭ちゃんにとっては成美さんも京香さんも大事な人に変わりはないから…。

べつにほら、姉さんになって欲しいとかそういう意味でなくて。ええとあの。


…精進してきます(ええっ!)。