24:ブラインド





 うんと背伸びして、一つ深呼吸する。
 この事務所の扉を開けようとするたびに、ひどく緊張している自分に気づく。
 扉を開けたところで、雑然として埃の上がる部屋が目の前に広がるだけで、誰かがいるわけでもないのに。

 うん、そうなのよね。
 誰かがここで待ってるわけじゃない。
 わたしが、ここで、待ってるのよね。
 

 …お父さんを。





 いつも扉の前でそこまで考えて、ため息をついて。
 それからようやくポケットに手を伸ばして、鍵を開ける。


 目の前に広がるのは、わたしには解らないたくさんの書類が仕舞いこまれた事務所。
 朝なのに事務所の中は暗い。いつもブラインドを下げて帰るからそれは当然なんだけど、わたしは…どうしてか、その暗さに怖くなる。
 ここには誰もいない。
 お父さんがここの事務所をやっていたときに、勤めてくれていた人たちには、みんな辞めてもらった。
 だからここにはわたししか居ない。わたしがお父さんを待ってなきゃいけないんだ。
 しっかりしなくちゃ。



「うん、悩んでいてもしかたないしね」



 いつものように事務所を開けよう。
 ここをちゃんと守っていればいつかお父さんは帰ってきてくれるから。
 何も心配することなんてないわ。お父さんの気まぐれはいつものことだったじゃない。


 こうやって、自分を励ますのも、…日課になっちゃったな。

 お父さん、ほんとに生きてるわよね。
 帰ってきてくれるわよね。







 暗い事務所をもう一度見渡して、わたしは窓に近寄った。
 部屋の空気、入れ替えよう。そしたら気分も大分変わるわ。一日をちゃんと過ごしていける。
 そう思って、ブラインドに手をかけた時。

「……?」

 隙間に人影が見えた気がして、わたしはそーっと覗いてみる。
 事務所の入っているビルの前、若い男の子が立っていた。二十歳すぎぐらいかしら。
 じーっと見てるのは……え? この事務所?
 …そんなわけないわよね。

「……」

 男の子は上を向いたり下を向いたり携帯を取り出したりメモを取り出したり、ええと要するに迷ってるような感じでしばらくそこに立っていたけど、少ししてもう一度この窓を見上げてから歩き出した。
 え。このビルに入るの? え、じゃあさっきここを見てたのって気のせいじゃなかったの?
 慌てて扉を振り向く。殆ど依頼なんて舞い込むことのないこの事務所に、まさか。

 こん、こん。

 控えめなノックが響いた。
 どうしよう、って考える前にわたしは声を出してたわ。

「は、はいっ! どうぞ」

 答えてから部屋の暗さに気づいて、慌ててブラインドを上げたの。
 ちょうど上げ終わるのと同時に、そーっ、って感じで入ってきたのが。




「真神くんだったのよ」




「…よく覚えてますね、京香さん」
 今はすっかり事務所の調査員に落ち着いている、その時の男の子が目の前で苦笑してる。
「実はあのとき、下から京香さんの姿が見えてたんですよ」
「えっ、うそ!」
「本当です。ブラインドの隙間からこっちを不思議そうに見ている人がいるなあって気づいて、依頼する前に事務所の人に怪しまれたくなかったから慌てて上がってきたんですよ」
 ……。いやだ、恥ずかしい。
「覗き見してたわけじゃないのよ? まさか、依頼しに来る人がいるなんて思わなくて…」
「大丈夫です、解ってますよ。俺の方も、事務所の前で不審な行動してて通報されてもおかしくなかったんですし」
 真神くんは冗談ぽくそう言って、冷めかけたコーヒーを飲み干した。
「でも、びっくりしましたよ。来てみたら京香さんひとりきりで、事務所には調査員らしき人が一人もいませんでしたから」
 所長の行方不明のことまでは聞き及んでなくて、と真神くん。
 …そうね、わたしも驚いてるわ。
 まさかその時の男の子が、依頼と一緒にいろんなものを持ってきてくれて。
 最終的にお父さんが帰ってくるきっかけまで、作ってくれるなんて。
「俺は何もしてませんし、所長は自分の力で戻ってきたんですよ」
 真神くんはゆっくり、って感じで笑う。
「わたしはね」
 あの日のことをもう一度思い出しながら、わたしも真神くんに笑いかける。
「あの時に、本当の意味でこの事務所のブラインドが上がった気がしてるの」



 お父さんがいなくなって、ずっと下げられたままのブラインド。
 調査らしい調査もできなくて、開店休業だった事務所。
 ただお父さんを待ちたくて、それだけの思いで所長机に座っていたわたし。


 そのブラインドを上げてこの事務所と、それから沈んでいたわたしに光を入れてくれたのが、目の前で控えめに笑うこの男の子だったんだって。



「それって、どういう意味ですか?」



 謙虚なところも、会った時から全然変わってないわよね。
 わたしは笑って、自分のカップからコーヒーを飲み干すと、不思議そうな顔をしている真神くんから空のカップを受け取る。
 洗って戸棚に仕舞うと、あの日真神くんを見つけたブラインドをさっと下ろす。




 電気はまだ点いたままだから、部屋の中は暗くならないけど。
 この部屋に寂しさを感じないのは、多分電気だけのせいじゃないと、わたしは思うの。

 そうよね? 真神くん。




「今日はおしまいにしましょう」



 そう告げて笑うと、真神くんも不思議そうな顔を仕舞って、また、あのゆっくりな笑顔を見せてくれた。






――――End.

 
京香さんの心にかかっていた色んなブラインドを全部開けて回ったのは恭ちゃんですよ、と。
自覚なくこういうことするから恭ちゃんなんだろうなあ。

たとえば所長のことでも、生きてる方向で励ましたのは恭ちゃんだけだったとかいう話じゃないですか。
そういう些細なことで人の心を軽く出来る人なんですよね。と。


はいただ京香さんと恭ちゃんが書きたかっただけというオチですいません。